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钦明天皇

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发表于 2010-11-18 20:11:27 | 显示全部楼层 |阅读模式

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钦明天皇,出于继体天皇3年(509年),卒于钦明天皇32年4月15日(571年5月24日),是第29代日本天皇。在位:自宣化天皇4年12月5日(539年12月30日),至钦明天皇32年4月15日(571年5月24日)。別名归岛天皇・斯归斯麻天皇。在位期间,佛教从百济传入日本,任那被新罗所灭。
    钦明天皇的和风谥号有4个,分别是:天国押波流岐广庭天皇《古事记》;天国排开广庭天皇《日本书纪》;阿米久尔意斯波留支比里尔波乃弥己等《天寿国绣帐》;天国案春岐广庭天皇《元兴寺伽蓝缘起》
    钦明天皇是继体天皇的嫡子,母亲是手白香皇女(仁贤天皇之女、雄略天皇之孙女)。
    即位
    父亲继体天皇是大和朝廷的旁系出身,立了大和朝廷的直系出身的上上任仁贤天皇之女、上任武烈天皇之姐(也有说法是妹妹)手白香皇女为皇后。
    尽管继体天皇有很多的儿子,但是嫡子仍然是与手白香皇女所生的钦明天皇。钦明天皇的两位庶兄宣化天皇、安闲天皇也都娶了手白香皇女的姐妹为皇后。(译者注:就义理上来说是娶了姨母,全是政治婚姻。)
    宣化天皇去世时,有大臣要拥立上任安闲天皇的皇后春日山田皇女为天皇,但被春日山田皇女谢绝,春日山田皇女劝进仍然年青的钦明天皇在539年(宣化天皇4年12月5日)即位,诞生了继承有旁系的继体天皇和直系的手白香皇女俩人血统的天皇。钦明天皇系统的天皇一直持续君临日本到现在,是现在的皇室的祖先。
    钦明天皇又娶了庶兄宣化天皇和桔仲皇女(仁贤天皇之女,钦明天皇之姨)所生的女儿石姫皇女为皇后,生下敏达天皇。同时钦明天皇也是用明天皇、崇峻天皇、推古天皇的父亲,厩户皇子(圣德太子)和押坂彦人大兄皇子(舒明天皇、茅渟王之王)的祖父。
    另外也有继体天皇死后,安闲天皇、宣化天皇的朝廷与钦明天皇的朝廷并立,或者内乱的说法。(后有详述)。
    大臣、大连
    钦明天皇以大伴金村和物部尾舆为大连(译者注:大连是当时日本的最高官职)、苏我稻目宿弥为大臣,不久后的540年(钦明天皇元年),大伴金村失势。由此,日本政坛出现了物部氏与苏我氏的二极体制。541年(钦明天皇2年)钦明天皇纳了苏我稻目的两个女儿坚盐媛和小姊君为妃。在敏达天皇死后,钦明天皇与苏我氏之女所生的桔丰日皇子等三兄妹,抛开了母亲是显赫皇族的侄子押坂彦人大兄皇子(敏达天皇之子),共坐了约40年的大王(天皇)位,构筑了苏我氏的全盛期。(当时除了父子相继制之外,日本的王位继承也常采用兄终弟及制。)
    任那
    百济的圣明王(《三国史记》中记载为“圣王”、中国的正史《梁书》中记载为“明”)在位的541年,打起“复兴任那”的旗号,与倭国达到协议,大和朝廷向百济派出援军,但是战况对百济、倭国联军不利。552年放弃了平壤和汉城(《三国史记》中记载为538年);554年(钦明天皇15年)与新罗的战争中,圣明王战死,新罗军军势大振;562年(或560年)任那被新罗所灭。562年(钦明天皇23年),倭国对新罗的讨伐军到达任那地区,却中伏,战况不利,不得不退兵。同年高句丽也派军参与了任那地区的争夺(《三国史记》中在554年有类似的记述)。
    在《日本书纪》中还记载了任那不是一个国家,而是由十国组成的连合体。
    钦明朝正是大和朝廷丧失了在任那的影响力,新罗兼并了任那,百济被削弱,被新罗日渐蚕食的时期。
    据说钦明天皇在临终前梦见了复兴任那才去世。长子箭田珠胜大兄皇子已经在552年钦明天皇去世前就去世了,554年被立为太子的渟中仓太珠敷皇子(敏达天皇)即位。
    历史学界关于钦明天皇即位年的争议
    如前所述,根据《日本书纪》的记载,钦明天皇是在庶兄宣化天皇去世后才即位,但是《日本书纪》同一书中,纪年却有几处自相矛盾的地方。因此,历史学界为解决这个问题产生几种不同的争议。
    首先,平子铎岭主张继体天皇的卒年是《古事记》所记载的527年(丁未年4月9日);之后,安闲天皇、宣化天皇各在位两年;在《日本书纪》记载的继体天皇的卒年的531年,钦明天皇即位。与此相对的,喜田贞吉同意钦明天皇的即位年是531年,但是主张钦明天皇的反对势力在3年后的534年拥立了安闲天皇,1年后安闲天皇去世,钦明天皇的反对势力继续拥立宣化天皇,钦明朝与安闲、宣化朝是同时并立的,在宣化天皇去世后,两朝并立的状态解除。林屋辰三郎大体同意喜田说,但是主张继体天皇是因暗杀而死。
    还有,水野祐、白崎昭一郎同意继体天皇卒年的平子说。但是,水野主张继体天皇死后,由安闲天皇在位8年,535年钦明天皇即位,宣化天皇不是真实存在的人物。白崎则主张安闲天皇在位4年后,有4年时间是宣化与钦明两朝并立的状态。
    与此相对的,黑岩重吾主张根据在《日本书纪》中继体天皇25年所引用的《百济本记》记载:“百济本记为文,其文云:大岁辛亥三月,军行至于安罗,营乞乇城。是月,高丽弑其王安。又闻,日本天皇及太子、皇子倶崩薨,由此而言,辛亥之岁,当廿五年矣”。(意为日本天皇及太子、皇子同时去世。)实际上并没有即位的安闲、宣化被暗杀或是软禁。大伴金村的失势,并不是因为受贿而割让任那4县被弹劾,而是因为拥立安闲、宣化等钦明天皇的庶兄而在皇位继承的政治斗争中失败而造成的。
    佛教的传播
    552年(钦明天皇13年),从百济传来了佛像和佛教经文。(译者注:这次在日本历史中,被称为佛教公传,指佛教作为当时倭国和百济之间外交的一部分,而传入日本,得到倭国王室的承认。在佛教公传之前,就有很多从亚洲大陆迁移到日本的渡来人在私下里信仰佛教。有两种说法,一种是552年、壬申年说,另一种是538年、戊午年说。)
    (关于佛教的传入,另一种说法据《上宫圣德法王帝说》的“志癸岛天皇御世 戊午年十月十二日”和《元兴寺伽蓝缘起》(天國案春岐廣庭天皇七年歳戊午十二月)记载,是在戊午年538年。)
    佛像和佛教经文由百济传入后,在废佛派的物部氏和崇佛派的苏我氏之间,产生了对立。物部氏烧毁佛寺,丢弃佛像,由此,物部氏与苏我氏之间的斗争开始。
    异说
    韩国的语言学家姜吉云主张:金官伽倻第10代国王仇衡王(生卒年不详,在位:521年- 532年)迁移到倭国后,作为志归岛大王(钦明天皇)即位。在日本也有德语文学研究者兼古代史爱好者铃木武树持同样的观点。
    ……
    日语原文
    欽明天皇(きんめいてんのう、継体天皇3年(509年) - 欽明天皇32年4月15日(571年5月24日))は、第29代の天皇(在位:宣化天皇4年12月5日(539年12月30日) - 欽明天皇32年(571年)4月15日)。和風諡号は天国排開広庭天皇(あめくにおしはらきひろにわのすめらみこと)。別名、志帰嶋天皇・斯帰斯麻天皇(いずれも「しきしまのすめらみこと」と呼ぶ)。この代に、百済より仏教が公伝し、任那が滅亡した。
    和風諡号
    天国押波流岐広庭天皇(あめくにおしはるきひろにわのすめらみこと) - 『古事記』
    天国排開広庭天皇(あめくにおしはらきひろにわのすめらみこと) - 『日本書紀』
    阿米久爾意斯波留支比里爾波乃弥己等(あめくにおしはるきひろにわのみこと) - 『天寿国繍帳』
    天國案春岐廣庭天皇 - 『元興寺伽藍縁起』
    系譜
    継体天皇の嫡子で、母は手白香皇女(たしらかのひめみこ。仁賢天皇の皇女、雄略天皇の孫娘)。
    即位
    継体天皇と手白香皇女(たしらかのひめみこ)との間の息子である。父親の継体天皇は傍系出身であり、先々代仁賢天皇の皇女で、先代武烈天皇の姉(妹)である直系の手白香皇女を皇后に迎え入れた。
    継体天皇は他に沢山の子がいたのにも関わらず、嫡子は手白香皇女との間の皇子であるこの欽明天皇であった。庶兄の宣化天皇、安閑天皇もまた継体天皇と同じく手白香皇女の姉妹を皇后に迎え入れている。
    宣化天皇が身罷った時に、先代安閑天皇の皇后であった春日山田皇女を中継ぎとして推薦したが、これは辞退されたためまだ若い欽明天皇が539年(宣化天皇4年12月5日)に即位した。ここに傍系の継体天皇と、直系の手白香皇女両名の血を引く天皇が誕生した。この欽明天皇の系統は現在まで長く続く事となり、現天皇家の祖となる。
    欽明天皇もまた宣化天皇と橘仲皇女(仁賢天皇皇女)との間の娘である石姫皇女を皇后とし、敏達天皇を儲けたほか、用明天皇・崇峻天皇・推古天皇の父でもあり、厩戸皇子(聖徳太子)や押坂彦人大兄皇子(舒明天皇・茅渟王の父)の祖父でもある。
    なお、継体天皇の死後、安閑天皇・宣化天皇の朝廷と欽明天皇の朝廷が並立していた、あるいは内乱があったという説がある(詳細は後述)。
    大臣・大連
    大伴金村と物部尾輿を大連(おおむらじ)とし、蘇我稲目宿禰を大臣(おおおみ)としたが、直後の540年(欽明天皇元年)大伴金村は失脚する。これにより物部氏と蘇我氏の二極体制ができあがるが、特に蘇我氏とは541年(欽明天皇2年)に稲目の娘である堅塩媛や小姉君を妃とし、敏達天皇崩御後、彼女らの間に儲けた橘豊日皇子以降3人の弟・妹が、母親がれっきとした皇族である、甥の押坂彦人大兄皇子を差し置いて約40年大王(天皇)位につき、蘇我氏の全盛期が築かれる(ただ、当時は親子よりも兄弟の継承が一般的であった)。
    任那
    百済の聖明王(『三国史記』では聖王、中国の正史では諱を明とすると書かれている)の間とは541年より任那の復興について協議していたが、戦況は百済側に不利であり、552年には平壌と漢城を放棄(『三国史記』によれば538年)、さらに554年(欽明天皇15年)に新羅との戦で、聖明王が亡くなると新羅軍は勢いづき、562年(もしくは560年)に任那を滅ぼしてしまう。562年(欽明天皇23年)には、新羅に討伐軍を送るが、敵の罠にかかってしまい退却する。[1]同年高句麗にも軍を送っている(『三国史記』では554年に似た記述が存在する)。
    なお、任那は一つの国ではなく十国が集まった連合であるという記載が『日本書紀』にある。
    ちょうどこのころは、大和朝廷が任那からの影響力を失い、新羅が任那を圧迫しており、百済の弱体化もあり、その勢力を維持できず新羅に勢力圏を明け渡した時期とも考えられる。
    欽明天皇は、最後まで任那復興を夢見ながら亡くなったという。第一皇子の箭田珠勝大兄皇子はすでに552年に早世していたため、554年に立太子させた渟中倉太珠敷皇子(敏達天皇)が即位した。
    即位年をめぐる議論
    前述通り『日本書紀』によれば、欽明天皇は庶兄・宣化天皇が崩御した後即位したとされているが、同書の紀年には幾つかの矛盾が見られ、それを解決するための議論がいくつか提示されてきた。
    まず、平子鐸嶺は父の継体天皇の没年を『古事記』の527年(丁未年4月9日)とし、その後2年ずつ安閑・宣化が在位して、『日本書紀』での継体の没年(継体天皇廿五年春二月丁未)にあたる531年に欽明天皇が即位したと主張した。これにたいして喜田貞吉は欽明の即位年は531年という点では同意するが、彼の即位を認めなかった勢力が3年後の534年に安閑を擁立、彼は1年で崩御したが、続いて宣化を擁立する等欽明朝と安閑・宣化朝は一時並立し、宣化の崩御により解消されたと主張した。林屋辰三郎も大筋では喜田説に同意するが、継体は暗殺されたと主張した。
    また、水野祐・白崎昭一郎は継体の没年については平子説に同意するが、水野はその後は安閑が8年間在位し、535年に欽明が即位、宣化は架空の人物と見なし、白崎は安閑の在位は4年でその後はさらに4年宣化・欽明両朝が並立したとみなした。
    これに対して黒岩重吾は『日本書紀』継体天皇廿五年での『百済本記』引用「百濟本記爲文 其文云 大歳辛亥三月 軍進至于安羅 營乞乇城 是月 高麗弑其王安 又聞 日本天皇及太子皇子 倶崩薨 由此而言 辛亥之歳 當廿五年矣」天皇および太子、皇子が同時に死んだという記述等を根拠にそれぞれ実際には即位していない安閑・宣化は暗殺・軟禁され、大伴金村は任那4県を賄賂と引き換えに割譲したことではなく、彼ら庶兄を推したために後継者争いに敗れて失脚したと主張した。
    仏教公伝
    552年(欽明天皇13年)に百済から仏像と経文が伝来する(仏教伝来そのものに関しては、『上宮聖徳法王帝説』(「志癸島天皇御世 戊午年十月十二日」)『元興寺伽藍縁起』(天國案春岐廣庭天皇七年歳戊午十二月)を根拠として戊午年・538年とする説が有力である。)。これによって、廃仏派の物部氏と崇仏派の蘇我氏の間で対立がおこり、物部氏は寺を焼き、仏像を投げ捨てる事までした。これにより物部氏と蘇我氏の間の確執が始まる。
    異説
    韓国の言語学者の姜吉云(カン・ギルウン)は、金官伽倻第10代国王の仇衡王(生没年不詳・在位:521年 - 532年)が倭国に移住後、志帰嶋大王(欽明天皇)として即位したという説を唱えている。日本でもドイツ文学者で古代史の愛好家だった鈴木武樹が同様の主張をしていた。
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