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继体天皇,日本第26代天皇。
二战后,将继体天皇视为现在的日本皇室之祖的新王朝论开始盛行。关于继体天皇与之前的大和朝廷的血缘关系,直到现在仍处于争议当中。
继体天皇,名字是オホド。《日本书纪》中记载为男大迹王,《古事记》中记载为袁本杼命,《筑后国风土记》的逸文记载为雄大迹天皇,《上宫记》的逸文记载为乎富等大公。还有 认为隅田八幡神社(和歌山县桥本市)收藏的人物画像镜铭中所见的孚弟王(男弟王?)就是继体天皇的说法。《日本书纪》记载,彦太尊是继体天皇的別名。
推测生年:《古事记》记载为485年,《日本书纪》记载为允恭天皇39年(450年)。
推测没年:《古事记》记载为丁未年4月9日(527年5月26日),《日本书纪》记载为辛亥年2月7日(531年3月10日)或甲寅年(534年)。
据《古事记》、《日本书纪》的记载,继体天皇是应神天皇的5世孙,父亲是彦主人王。出生于近江国高岛乡三尾野(现在的滋贺县高岛市),因为小时候父亲去世了,所以在母亲的故乡越前国高向(现在的福井县坂井市丸冈町高椋)长大,以男大迹王之名统治着5世纪末的越前地区(也有说法是近江地区)。
据《日本书纪》的记载,506年武烈天皇去世,没有指定继承人,(译者注:武烈天皇并没有留下后代。当时的日本皇室由于近亲通婚,生育力低下,人丁不旺,而且皇室争夺权位,自相残杀,近亲中已经没有继承皇位的合适人选)大连大伴金村等进往越前,迎立武烈天皇的远亲男大迹王为大和朝廷的大王(译者注:当时的日本统治者还没有自称天皇,大王是最高统治者)。承诺继位的男大迹王在第二年以58岁之龄在河内国樟叶宫即位,立武烈天皇的姐姐(也有说法是妹妹)手白香皇女为皇后。
继体天皇大概在即位19年后的526年,定都于大倭(日后的大和国)。不久,应百济的请求,从九州北部派援军前往朝鲜半岛。但是此时却爆发了与新罗勾结的筑紫君磐井(译者注:北九州的豪族)在九州北部的叛乱,史称磐井之乱。大和朝廷很辛苦才把叛乱平定下来。(关于磐井之乱还有很多种不同的说法)。据日本书纪的记载,继体天皇自507年即位后到定都大和的约20年里,大和朝廷内部或者说各地豪族间围绕着大王的宝座的争夺而存在着混乱状态,也暗示了继体天皇(大和朝廷)无法掌控九州北部地区的豪族。
531年,让位于皇子勾大兄(即安闲天皇,这是日本历史最早的让位纪录),安闲天皇即位的当天,继体天皇去世。在《日本书纪》中,引用《百济本记》的记载“百济本记为文,其文云:大岁辛亥三月,军行至于安罗,营乞乇城。是月,高丽弑其王安。又闻,日本天皇及太子、皇子倶崩薨,由此而言,辛亥之岁,当廿五年矣”。天皇及太子、皇子同时去世,暗示着自继体天皇以下死于政变的可能性。
关于继体天皇去世的年份,《古事记》记载的是527年,定都于大倭的第二年。《古事记》记载的去世时的年龄是约40岁,《日本书纪》则记载为约80岁的长寿年龄。
历史学界关于继体天皇出身的争议
据《古事记》、《日本书纪》的记载,继体天皇的前任武烈天皇没有后嗣,因此越前(也有说法是近江)的“应神天皇5世孙”的继体天皇才被群臣拥立。但是《日本书纪》的皇室谱系图丢失一巻,失去了原来的正确世系。勉强从《上宫记》的逸文中才得出一份世系信息。但是,围绕着这种特殊的即位情况,产生了种种争议。
旧说尊重《古事记》、《日本书纪》的记载,认为继体天皇是大和朝廷5代以前的旁系远亲、地方上的有力王族。但是,二战后,对历史研究的政治力控制减少,特别是关于天皇的自由研究成为可能。在历史学界开始提倡继体天皇是与之前的大和朝廷无血缘关系的“新王朝的始祖(初代大王)”说。(水野祐“三王朝交替说”)
根据这种说法,所谓的天皇万世一系的说法被否定,自出身不明的第26代继体天皇起,开始了大和朝廷新的大王家族。这种学说中,有的还更进一步的认为继体天皇无视近江的王族旁支(从皇族降为臣籍而产生的家族)息长氏,依靠武力控制了大和朝廷,篡夺了王位。
近年来,也盛行5世纪的大和朝廷的大王,不是特定的世袭王朝的说法。继体天皇之前的大和朝廷是各个地区豪族的联合政权,大王由各地区的豪族每隔一段时间选举产生,并不清楚大王的祖先是什么人。武光诚认为:继体天皇之前的大王是从很多的有力豪族中产生的,武烈天皇等原来的天皇世系并不真实存在,关于应神天皇的真实存在与否,也有很多种说法,不能确定。
然而,进入1980年代后,指出记载继体天皇出身的《上宫记》的成文有可能可以追溯到推古朝(黛弘道“关于继体天皇的世系”《律令国家成立史的研究》吉川弘文馆、1982年)。因此,旁系王族说再次得到支持。即记载《上宫记》逸文的《释日本纪》中的“上宫记曰一传”所记述的:《上宫记》的作者引用了別的史料。虽然《上宫记》的真伪不明,但是其是根据更古老的史料而记载了大和朝廷世系。
现在的历史学界认为不能确定继体天皇是否是应神天皇的5世孙,但是大和朝廷的大王之位并不是篡夺而来,是得到大和朝廷中枢的豪族的支持而即位的说法成为了主流。还有,据《古事记》、《日本书纪》的记载的关于继体天皇之后的天皇世系,是可信的。
即使继体天皇真是应神天皇的旁系子孙,那也是超出五服的血缘淡薄的远亲关系。为了弥补血缘的淡薄,继体天皇娶了应神天皇直系的手白香皇女。现在天皇的祖先钦明天皇(译者注:继体天皇之嫡子)是手白香皇女所生,至少从母系来说,继承了应神天皇的血统。
即使采用继体新王朝说,现在的日本皇室也自继体天皇以来,保持了由男系继承的一千五百年历史,是世界上最长的王朝。
皇后
继体天皇的皇后是雄略天皇的孙女、仁贤天皇的女儿、武烈天皇的妹妹(也有说法是姐姐)手白香皇女。继体天皇在入主大和之前在越前就有不只一个妃子及很多的儿子,但是即位后娶了前任武烈天皇的妹妹为正式的皇后。这是政治婚姻,继体天皇将有着直系正统血脉的前任天皇的妹妹立为皇后,谋求与武烈天皇系融和的同时,以一种类似入赘的方式宣示其王位的正当性。
尽管继体天皇有很多的儿子,但是嫡子仍然是与手白香皇女所生的天国排开广庭尊(钦明天皇)。钦明天皇又立了侄女兼表妹石姫皇女为皇后(父:钦明天皇的异母兄宣化天皇;母:手白香皇女的姐妹桔仲皇女),生下了敏达天皇。
大和朝廷继体天皇的旁系血脉,被认为由皇后手白香皇女的直系血脉强化了。这样继体天皇与手白香皇女之子钦明天皇的血脉一直延续至今。
世系
据《日本书纪》的记载:继体天皇是应神天皇5世孙(曾孙之孙),父亲是彦主人王、母亲是垂仁天皇7世孙振媛。但是,从应神天皇到继体天皇之间的4代世系,《日本书纪》没有记载。勉强从镰仓时代《释日本纪》所引用的《上宫记》逸文才得出一份世系信息。这份资料中记载:凡牟都和希王(应神天皇)─若野毛二俣王─大郎子(意富富等王)─乎非王─汙斯王(彦主人王)─乎富等大公王(继体天皇)。据近年来黛弘道的研究指出,《上宫记》可能是推古朝的遗文,关于其内容的真实性和继体天皇真实的血统,和前文所述的几种说法有分歧,认为在原帝纪的编纂(钦明朝?)的同时,也编纂了世系传承。
……
日语原文
継体天皇(けいたいてんのう、允恭天皇39年(450年)? - 継体天皇25年2月7日(531年3月10日))は第26代の天皇で、在位は継体天皇元年2月4日(507年3月3日) - 同25年2月7日(531年3月10日)。
戦後、現皇室は継体天皇を初代として樹立されたとする新王朝論が盛んになった。それ以前のヤマト王権との血縁関係については現在も議論が続いている。
諱はオホド。『日本書紀』では男大迹王(おおどのおおきみ)、『古事記』では袁本杼命(おおどのみこと)と記される。また、『筑後国風土記』逸文に「雄大迹天皇(おおどのすめらみこと)」、『上宮記』逸文に乎富等大公王(おおどのおおきみ)とある。 なお、隅田(すだ)八幡神社(和歌山県橋本市)蔵の人物画像鏡銘に見える「孚弟王(男弟王?)」は継体天皇を指すとする説がある。別名として、『日本書紀』に彦太尊(ひこふとのみこと)とある。
推定生年:『古事記』には485年、『日本書紀』には允恭天皇39年(450年)。
推定没年:『古事記』には丁未4月9日(527年5月26日)、『日本書紀』には辛亥2月7日(531年3月10日)または甲寅(534年)とされる。
『古事記』、『日本書紀』によると継体天皇は応神天皇5世の子孫であり、父は彦主人王である。近江国高嶋郷三尾野(現在の滋賀県高島市あたり)で誕生したが、幼い時に父を亡くしたため、母の故郷である越前国高向(たかむく、現在の福井県坂井市丸岡町高椋)で育てられて、男大迹王として5世紀末の越前地方(近江地方説もある)を統治していた。
『日本書紀』によれば、506年に武烈天皇が後嗣定めずして崩御したため大連(おおむらじ)・大伴金村らは越前に赴いて、武烈天皇とは血縁の薄い男大迹王をヤマト王権の大王に推戴した。これを承諾した王は、翌年58歳にして河内国樟葉宮(くすばのみや)において即位し、武烈天皇の姉(妹との説もある)にあたる手白香皇女(たしらかのひめみこ)を皇后とした。
継体は、ようやく即位19年後の526年、大倭(後の大和国)に都を定めることができたが、その直後に百済から請われて救援の軍を九州北部に送った。しかし新羅と結んだ磐井によって九州北部で磐井の乱が勃発して、その平定に苦心している(磐井の乱については諸説ある)。日本書紀の記述では継体が507年に即位してから大和に都をおくまで約20年もかかっており、天皇家(実態はヤマト王権)内部もしくは地域国家間との大王位をめぐる混乱があったこと、また、継体(ヤマト王権)は九州北部の地域国家の豪族を掌握できていなかったことを示唆している。
531年に、皇子の勾大兄(安閑天皇)に譲位(記録上最初の譲位例)し、その即位と同日に崩御した。 『日本書紀』では、『百済本記』(「百濟本記爲文 其文云 大歳辛亥三月 軍進至于安羅 營乞乇城 是月 高麗弑其王安 又聞 日本天皇及太子皇子 倶崩薨 由此而言 辛亥之歳 當廿五年矣」)を引用して、天皇及び太子と皇子が同時に亡くなったとし、政変で継体以下が殺害された可能性(辛亥の変説)を示唆している。
死去年に関しては、『古事記』では継体の没年を527年としており、そうであれば都を立てた翌年に死去したことになる。古事記では没年齢は約40歳だが、日本書紀に従うと約80歳の長寿であった。
出自を巡る議論
『記紀』によると、先代の武烈天皇に後嗣がなかったため、越前(近江とも)から「応神天皇5世の孫」である継体が迎えられ、群臣の要請に従って即位したとされる。しかし、『日本書紀』の系図一巻が失われたために正確な系譜が書けず、『上宮記』逸文によって辛うじて状況を知ることが出来る。しかし、この特殊な即位事情を巡っては種々の議論がある。
『記紀』の記述を尊重して、継体天皇を大王家の「5代前に遡る遠い傍系に連なる有力王族」とする旧来の説があった。しかし戦後に、歴史とりわけ天皇に関する自由な研究が認められることになったことから、継体は従来の大王家とは血縁のない「新王朝の始祖(初代大王)」とする説(水野祐「三王朝交代説」)が提唱された。
この説によれば、いわゆる万世一系は否定され、出自不明の第26代・継体天皇からヤマト王権の新たな大王家が始まる。さらに論を進め、近江の皇別氏族(皇族が臣籍降下して誕生した氏族)息長氏(おきながうじ)の出身と見なし、ヤマト王権を武力制圧して王位を簒奪したとする説も出された。
近年では、5世紀のヤマト王権大王の地位は特定の血に固定されなかった(即ち王朝ではなかった)とする説も強い。継体天皇前のヤマト王権は各地域国家の連合であり、大王はその時々の地域国家の王から選ばれ、祖先が誰かは分からないという意味である。武光誠は、継体以前の大王は複数の有力豪族から出たとしている。また武光によれば、武烈天皇などは実在した天皇ではなく、応神天皇の実在に関しても諸説ある、としている。
ところが1980年代に入り、継体の出自を伝える『上宮記』の成立が推古朝に遡る可能性が指摘(黛弘道「継体天皇の系譜について」『律令国家成立史の研究』吉川弘文館、1982年)されて、傍系王族説が再び支持を集めるようになった。すなわち『上宮記』逸文が載っている『釈日本紀』には「上宮記曰一伝」という記述があるが、『上宮記』の作者は別史料を引用している。それには、真偽は不明であるが、さらに古い資料に基づいた王権系譜が載っていた。
現在の歴史学界では継体が応神の5世孫かどうかは不明とするが、ヤマト王権の大王位を簒奪した訳ではなく、ヤマト王権中枢の豪族の支持を得て即位したとする説が有力である。なお継体天皇以降の天皇系譜については、『記紀』の記録もある程度は信用できる。
応神天皇の子孫説が正しいにしても、5代も前に遡らなくては継体天皇は武烈天皇に血が繋がらない薄い親戚関係である。しかし、その血の薄さを補うためか、継体は応神直系の手白香皇女を娶っている。彼女は現在の天皇家の祖である欽明天皇を産んでおり、少なくとも女系では応神の血筋は継承されていることになる。
継体新王朝説を採用した場合でも、現皇室は継体以降だけで男系千五百年の歴史を持つ世界最長の王朝である。
皇后
皇后は雄略天皇の孫娘で、仁賢天皇の皇女であり、武烈天皇の妹(姉との説もある)の手白香皇女である。継体天皇は大和に入る以前に現地で複数の妃を持ち沢山の子もいたが、即位後には先代天皇の妹を正式の皇后をとして迎え入れた。これは政略結婚であり、継体天皇は先代天皇の妹で正当な血筋を持つ直系の手白香皇女を皇后にする事により、武烈天皇系との融和を図るとともに、一種の入り婿という形で血統の正当性を誇示したと考えられている。
継体天皇は他に沢山の子がいたにもかかわらず、嫡子は手白香皇女との間の皇子である天国排開広庭尊(欽明天皇)であった。欽明天皇もまた手白香皇女の姉妹を母に持つ、宣化天皇皇女の石姫皇女を皇后に迎え敏達天皇をもうけた。
ヤマト王権の傍系の血を、皇后の直系の血統により補強したと考えられている。かくして継体天皇と手白香皇女の皇子である欽明天皇の血筋が、長く現在まで続く事になる。
系譜
『日本書紀』によれば応神天皇5世の孫(曾孫の孫)で父は彦主人王(ひこうしのおおきみ)、母は垂仁天皇7世孫の振媛(ふりひめ)である。ただし、応神から継体に至る中間4代の系譜について『記紀』では省略されており、辛うじて鎌倉時代の『釈日本紀』に引用された『上宮記』逸文という史料によって知ることが出来る。これによると、男子の直系は「凡牟都和希王(ほむたわけのおおきみ・応神天皇) ─ 若野毛二俣王 ─ 大郎子(一名意富富等王) ─ 乎非王 ─ 汙斯王(=彦主人王) ─ 乎富等大公王(=継体天皇)」とされる。『上宮記』逸文は近年、黛弘道の研究によって推古朝の遺文である可能性も指摘され、その内容の信憑性や実際の血統については前述の通り議論が分かれているものの原帝紀の編纂(欽明朝か)と同じ頃に系譜伝承が成立したものと思われる。 |
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